日本最大級の照葉樹林の残る町 綾町


綾町には日本一の原生林、照葉樹林が広がっており、山は見渡す限り大きなブロッコリの房のように生い茂った葉が盛り上がっています。
常緑広葉樹が光り輝き、豊かな水を生み、ドングリやシイの実・アケビ等の食べ物が豊富。そして動植物や鳥、獣等の多様な生物が生息する森が照葉樹林です。

2012年7月11日綾町はユネスコエコパークの町として世界に認められました。

ユネスコエコパークの登録は綾町を中心とした小林市、西都市、国富町、西米良村に広がる14580ヘクタールの照葉樹林と、自然と共生する綾町の町民7300名。
認定の条件は、守るべき貴重な自然が残されていることに加えて、それを後世に残すための文化が残っていること。

 

自然と共生する綾町民、そして「照葉樹林都市・綾」を基調とし、"自然と調和した豊かで活力に満ちた教育文化都市"を町づくりの基本理念とする綾町の取り組みが合致したのでした。

綾がユネスコエコパークに認定されるまでの道のり
1932年  10月  町政を執行
1975年  3月 綾町の自然を守る条例の制定
1982年 5月 照葉樹林帯が九州中央山地国定指定公園に指定
1984年 3月 綾の照葉大吊橋竣工
1985年 3月

綾照葉樹林文化館竣工

    第一回綾シンポジウム「照葉樹林文化を考える会」開催
    「照葉樹林都市・綾」を宣言
1988年 7月

自然生態系農業の推進に関する条例の制定

1989年 7月 有機農業開発センター 開設
1995年 11月 第一回全国水の郷サミット開催
2005年 5月 綾の照葉樹林プロジェクト正式に調印
2010年 3月 森林セラピー
  5月 綾の照葉樹林プロジェクト(以下綾プロ)連絡調整会議に日本MAB計画委員会副会長が来町
  8月 第12回綾プロ連絡会議において地域づくりワーキンググループが提言を行う。綾町がユネスコエコパークへの登録を目指すことを表明
  10月 ユネスコ関係者が来町。高い評価を受ける。
2011年 1月 町民に対し「綾の照葉樹林プロジェクト事業説明会」でユネスコエコパークの紹介をする。
  5月 国際照葉樹林サミット
  9月 綾ユネスコエコパーク登録に関する国内推薦決定
  10月 綾の照葉大吊橋リニューアルオープン
2012年 7月 ユネスコ本部の会議で「綾ユネスコエコパーク」正式に登録決定

照葉樹林は日本文化の原点


森林伐採計画が浮上した頃、郷田實は伐採反対を有意なものにするため日々自然についての研究を重ねました。

中でもその頃発表された中尾佐助氏の著”照葉樹林文化論”との出会いは、綾町の運命を変えたのでした。

照葉樹林帯は、ヒマラヤの中腹辺りから東へ、ネパールブータンアッサムの一部を通り、東南アジア北部山地、雲南紀州高知、長江流域、朝鮮半島南部を経て西南日本までに分布されます。日本では、九州西部から秋田県海岸部、岩手南部を北限とする地域に分布しています。
これらの照葉樹林帯には多くの民族が住んでいますが、共通して南からの温かい黒潮が岸を洗いさんさんと日が輝き温かく、沢山の雨(水)に恵まれた環境であり、その中で営まれている生活(文化)に共通したものが文化要素が存在しています。

もち、お茶、酒類、しょう油、ミカン、こんにゃく、納豆、絹、繭、漆、酒、稲作文化...。
照葉樹林から生まれた文化の歴史は古く、縄文時代、弥生時代よりも早い日本の文化のルーツではないかと言われています。

照葉樹林文化こそ日本の文化の原点であったに違いないと感銘を受けた郷田實は、綾町の8割を占めるこの照葉樹林と文化を守ることは、今後の綾のみならず日本の文化のためにもなるはずだと確信しました。照葉樹林は国定公園の指定を受け、国民の財産を綾町が預かった使命を果たすべく、綾町にその文化をよみがえらせ、保存する道を選んだのでした。

結いの心で町おこし


まだ村だった時代、田植えをするときもお祝い事でも皆が互いに助け合いながら、自分たちの身の回りをよくするために、補い合いながら工夫して生活していました。

 

日々の生活の営み(文化)や自然を愛する心、心と心が通じ合う人々の温もり。

心からお世話をして人と人とが交流を楽しむ。

ひとつも無駄なく循環し続ける自然の巡り。

無駄と思える間こそが大切なのだと郷田實自身、綾の森から教わったことなのかもしれません。

 

照葉樹林文化を保存すること、そして昔の田園風景にあった「結いの心」を綾町民が取り戻すことが大切だとの町づくりに反映させたのでした。

 

 

町を蘇らせた自治公民館活動-結いの心


より良い町づくりの基本は「町民一人ひとりの意見を反映させること」とよく言われます。

それを徹底するために、各集落ごとの公民館を「自治公民館」と呼び、朝晩顔を合わせる親しい間柄の人同士が日常的な生活課題を主体性をもって取り組むことを目指しました。それぞれの集落をどうしてゆくか議論し合うことで自分の暮らす町を自分のこととして考え「自治の心」=「結いの心」を取り戻してもらうことが目的でした。

自治とは「自ら治める」ということ。身の回りをよくするためにはまず、自分たちを治めることが必要だと考えました。

照葉樹林都市・綾として町をよみがえらせるためには、「結いの心」を取り戻し町民の全員参加が必要不可欠でした。

この「結いの心」こそが、綾町を今日まで導いた原動力であったといいます。

「花いっぱい運動」「河川一斉清掃運動」「町民体育大会」など、自治公民館活動からはじまった子供から高齢者まで町民全体参加型の活動は受け継がれています。中でも各公民館ごとの「手作り文化祭」は毎年数百人来場するほどの盛り上がりを見せています。

どこへ行っても町民同士の挨拶は絶えず、互いに相手をいたわり合う心が残っています。

郷田實の町づくりのもう一つの理念は「子供の手本になる生活づくり」でした。

町を愛し、町をよくするために集う姿は、その想いとともに子供たちへも引き継がれてゆきます。

綾出身の若者たちの間で、自分たちのことを「綾人」と呼ぶのを耳にします。

それは先人たちが残した財産。郷土愛であり、郷土への誇りにほかなりません。

 

 

自然生態系農業 有機農業のまち


有機農業の町・綾としての第一歩は「自然への問いかけ」からでした。

照葉樹林とともに共存しながら町民の暮らしを向上させてゆくには、外から買う農業から綾町として自給自足を確立することが重要でした。

そして自然の巡りを壊さない昔ながらの方法で野菜をつくることが町民を健康にし、綾の野菜を求められるようになるだろうと考えたのです。

昭和42年「一坪菜園運動」が始まりました。

まず目指したのは町民全体が自分の家で野菜をつくること。できた野菜を隣近所で分け合うこと。そうやって健康野菜のノウハウを町全体で習得することを目指したのです。

春と秋には種子を無料配布し菜園づくりを奨励しました。

 

しかし、当時の国は大規模農業、いわゆる農業の合理化を奨励しており、農薬や化学肥料を使うのが当たり前の時代。「有機野菜」や「無農薬野菜」の考えとは逆行していました。

そこで綾町は農家の野菜に保証価格を設定しました。堆肥を入れること、除草剤を使わないこと化学肥料を務めて使わないことを条件に「価格保証制度」を導入し、それを下回った場合差額を町が負担。

これに対して農家や議会で理解を得ることは大変で、運動が軌道に乗るまでに役20年もの年月がかかったのでした。

「いつか健康を買う時代がくる」「土には文化がある」

その考えを貫き、今では「有機農業の町・綾」として、遠隔地の都会とも産直協定を結ぶなど、安全な農作物の供給基地としての地位を確立しています。

 

そして「一坪菜園運動」によって作られた一般家庭の有機野菜は、お互いに持ち寄る青空市が開かれるようになり、今では年間●●人の観光客が訪れる産直所「綾・手作り本物センター」での販売へと発展してゆきました。

 

有機農産物の認定機関と条例を制定

自然を大切にする綾の農業は、より自然な生態系に近い農業にしてゆくべきだと考え、「自然生態系農業」を呼び、その願いをこめたのでした。

綾町では昭和63年に全国初となる「自然生態系農業の推進に関する条例]を制定し、この自然生態系農業による町づくりへの取り組みが進められてきました。またこれに先立ち、土づくりの基本である有機質肥料の確保のための取り組みが昭和53年から進められ、昭和62年には町内で得られる有機物を農地に還元し資源循環を行うシステムが完成されました。

 

≫綾町の自然生態系農業と有機農産物についてのシステム詳細

 

手づくり工芸の町


照葉樹林帯の中には共通して生息する生物や植物があり、その気候風土に合わせた暮らしから必然的に生まれた生活文化がありました。

竹細工や木工、織物、陶芸、草木染、民具。自然に生息する繭。

これらは照葉樹林とともに生きてきた先人の生活の一部でした。

経済が成長するほどに「心」が求められる時代がやってくると考えていた郷田實は、物質=「文明」とするならば、心=「文化」だととらえ日本の文化の原点である照葉樹林から生まれた文化を復元させることを掲げました。

「文化」とは高尚なことではなく、日々の営み、生活様式から生まれたものであり、先人が営んできた生活そのもの。

大量にものを作り消費する時代が極まった後、人は心を求め自然に癒しを求めにくるだろうと、綾町全体で生活文化(照葉樹林文化)を楽しむ暮らしを広めようと考えたのでした。

昭和43年に始まった「一戸一品運動」では、各集落の自治公民館運動と連動して、各家庭で作られたものを持ち寄り文化際を開くようになりました。

「手作り文化祭」「生活文化祭」と呼ばれ盛り上がった文化祭の出品物はすべてが町民の手仕事のオリジナルであり、手作り加工品や伝統民舞、木工工芸品などを「綾。手作り本物センター」で販売られるようになるとたちまち人気を呼び、町でのモノづくりは活性してゆきました。

その町の雰囲気は外部に伝わり、外から綾町にプロの職人が目指してやって来て工房を開くと文化の薫り高い絶品を製作するようになりはじめ、刺激を受けた地元のプロたちもモノづくりにもますます活気づいて「手作り工芸の町」は確立されたのでした。

田舎の風景と綾らしさを残す


「現在は過去の集積であり近未来は現在の結果である」と未来に立って物事を考え町づくりに落とし込んでいた郷田實は、「ニーズよりもトレンド」と現在のニーズに答え続けることよりも、トレンドを見極めた町政を目指していました。

日本中が高度成長期の真っ只中であった頃、綾らしさ、綾にしかない田舎らしさを掘り下げ、作られた様々なものが綾にはあります。

 

古文書に存在したとされる綾城を木造で忠実に復元。

照葉樹林の気を体いっぱいに吸収してもらおうと始まった綾・照葉樹林マラソン。

馬産地として戦前まで盛んだったことから生まれた「馬事公苑」。毎年秋には綾競馬が開催されています。

そして、日本文化の原点としての照葉樹林の自然と生態系を、肌で感じてもらうための架け橋である「照葉大吊橋」は当時世界一の長さとしてにぎわいを見せています。

いつか都会で忙しく暮らす人々が日本の心の故郷として田舎を求めに綾にやってくるだろう...と、忘れられてしまったものを思い出すような仕掛けが綾にはたくさんあります。