ほんものとは、自然を壊さず

地球を汚さないでつくったもの

自分の良心に訴えて恥ずかしくないもの

人をだまさんもののことである。

ほんものを目指した物作りを

しようではないか。

 

宮崎県綾町前町長 郷田實

 

 

 

郷田實 プロフィール


1919年 宮崎県綾町に生まれる

1926年 綾尋常小学校入学

1941年 拓殖大学、南方専門科卒業 
1942年 兵役(北支、中支、南方々面)

1946年 復員
1946年 綾町農協勤務
1954年 綾町助役就任
1966年 綾町長就任
1972年 宮崎県公民館連合会会長就任
1977年 宮崎県町村会長就任
1981年 全国町村会常任理事就任
1981年 全国公民館連合会理事・副会長就任
1987年 宮崎県町村会長退任
1987年 全国町村会常任理事退任
1990年 綾町長退任


あの山を残そう子どもたちのために


郷田實が町長に就任したのは昭和41年7月。

この頃の綾町は「夜逃げの町」と言われておりました。


荒川である綾北川と綾南川に挟まれ、台風が来ると中心部は水上がりし、道路も1本しかないどんずまりの立地の条件であった当時の綾町は、農耕面積はわずか9%と少ないうえ土がやせていて、米も野菜も収穫量は他の地域の半分以下。野菜類は町外からまかなっていました。


山林が総面積の80%を占めるこの町では、当時、林業が生み出す雇用によって生計を営んでいましたが、戦後の機械化の進展で急速に就労の場を失い、昨日まであった商店が閉じられ住人はどこかに消えている、子どもたちは集団就職で町を出ていく、診療所もゼロ...。

町民の不安は募るばかりでした。

そんな中、営林署から山を伐る話が舞い込んできます。

林業で成り立たせているこの町にしばらくの間、雇用は創出される。短期的にみると、綾町にとっては良い話でした。


しかし、綾町長であった郷田實は「あの山を伐らせてなるものか」と反対したのでした。

 

生まれ育った見慣れた故郷の風景。

自身のつらい戦争体験で仲間を目の前で死に絶える姿を見、生死の間で、故郷の山や川、祭りの音、雄大な田園風景を思い出したといいます。

”伐採が終わった後、一体何が残るのか。
山肌がむき出しになった裸山が残るだけで、何百年にわたって綾の自然を育んできた自然林を破壊することになる。”


時代はまさに高度成長期の真っただ中。町議会の反応はおおむね森林伐採に賛成。営林署長も伐採反対について取り合ってはくれませんでした。

山の仕事で恩恵を受けられるはずだった人々も斧をもって家に押し寄せガラスを割られるなど抗議されることもあったといいます。


山を残すか雇用を選ぶか。

どうしたら町民やこどもたちの暮らしを守れるのか..? 
郷田實は自問自答を重ねました。

 

”あの山を残そう子どもたちのために”


伐採反対の説得力を探るため、山や自然について徹夜で勉強し片目が潰れるほど本を片っ端から読み研究し続けました。
そして、
森は木の葉が落葉し、山で暮らす動物たちの糞尿から死骸までが微生物よって土へと戻されてゆくこと。
土から吸収したミネラルで育まれた葉や実を昆虫や動物が食べ生き物をまた育んでいること。
自然にはひとつの無駄もなかったこと。

自然の巡りと循環の大切さ、共存共栄の世界...。

一人のヒトとして自然との付き合い方について深く考えるきっかけとなったのでした。

 

当時の綾消防団の協力により町民の75%もの伐採反対署名を集め農林大臣に直訴。

その後、国定公園指定を申請して13年目に認定されました。

 

こうして綾の森は守られたのでした。